「主を覚えて道を歩く」 02.02.10   箴言3:1〜12、ヘブライ10:19〜22

 <わが子よ、主の諭
(さと)を拒むな。主の懲(こ)らしめを避けるな。
かわいい息子を懲らしめる父のように、主は愛する者を懲らしめられる。>
(箴言3:11〜12節)
 大きな困難や絶体絶命の危機にぶつかった時に、それを神からの試練として
受け入れ、神に希望をおいて、なお耐え、そこから奮い立つ信仰者の姿を
たびたび見ます。それは、困難な中にあってもなお、主なる神の前に生かされて
いる自分であることを信じ、主なる神を見つづける信仰によって可能となることです。

 目の前にある問題の大きさや、それに対処しきれない自分の小ささにいくら目を
注いでも、そこには励ましや勇気は生まれて来ません。問題が大きければ大きい
ほど、縮こまり、固まるしかなくなります。

 <そうすればあなたの筋肉は柔軟になり、骨は潤されるであろう>(箴言3:8)と
語られます。主なる神に目を注ぎ、常に主を覚え、主を正しく畏れる者は、体が
柔軟になり骨(体の内部、心)も健康になる。その柔軟さと健康さが、困難な中で
あっても、確かな主の導きに気づかせ、神の与える試練として向き合うものと人を
変えるのです。

 では、どうして主なる神を覚えることで、身も心も健康になるのでしょうか。
それは、主なる神を見る時に、自分がどんなに愛されている存在であるかを
知らされるからです。罪と愚かさを抱える私たちをご自分のもとに迎え入れる
ために、御子イエスを十字架につけられました。そんな驚きの愛を自分に向けて
くださる神であると知るのです。それを本当に知った時に、こわばっていた体が
ほぐされ、歩みだす力が生まれます。人の体と心は、神さまの愛を知るときに、
柔軟と潤いへと変わるのです。

 「あなたは、どこにいるのか。」エデンの園で神に背き、隠れるようにしていた
アダムに、呼びかけた神は私たちにも呼びかけてくださいます。
そして「隠れなくて良い。私を見、私の愛を知りながら、あなたの道を進みなさい。」
と招いていてくださいます。